製糸工場 もう1つの職工事情【14.07.02】

「富岡」が世界遺産登録へ

 世界文化遺産に登録され、平日なのに観光客で大変なにぎわいです。

 群馬県富岡市にある富岡製糸場。

 日本の近代化と、世界の絹産業の発展への貢献、設備や道具などの保存状態が良いことが高い評価を受け、6月21日正式登録されました。

士族のお嬢さん集めて

 日本の近代化を考える文化遺産として注目されるというのは喜ばしいことです。

 でも、そこで働く「女工」の労働実態はどうだったのでしょうか。

 明治5年に操業を始め、明治26年の払い下げまでは官営でした。

 民間製糸場の指導者を育成するため、全国から「士族の娘」が集められたといいます。

 いわばお嬢さんです。

 現地のガイドさんによると、操業開始が予定より3ヵ月も遅れたのは、女工集めが難航したためです。

 労働条件は比較的良好。1

 日の労働時間は8時間、週休2日制で夏冬の長期休暇もありました。

 それでも高温で粉じんの多い職場だったため、脚気や胃腸病、結核を患う女工も。操業2年で7割が退職したとか。

 お嬢さんにとって、工場労働はストレスが大きかったのでしょう。

広がった「女工哀史」

 富岡製糸場を起点にして全国に広がっていった製糸工場はどんな実態だったのでしょうか。

 明治36年(1903年)に当時の農商務省商工局がまとめた「職工事情」という調査報告書に、労働条件などが紹介されています。

 製糸工場で働くのは圧倒的に女性で、大半は10代です。1日13~14時間労働、夜業も当然ありました。宿舎は大部屋で1人1畳分、畳でなく筵(むしろ)の場合もあったといいます。

 食事は「概して粗食」。

 トラホーム患者や肺病、下半身の霜焼けが多く、手を熱湯につけることから皮膚もただれていました。

 外出は厳しく監視され、事実上の軟禁状態。上司に逆らうと厳しい折檻(せっかん)がありました。

 小規模工場では「水中投身」「鉄道往生」など、苦しさから自殺が少なくなかったようです。

12歳の少女の涙

 「募集人」に連れられて新潟から群馬の工場へ来た12歳の少女がこんな証言をしています。

 「朝4時に起き、朝食前に2時間あまり仕事を致します…夜は点灯後暫時にて夜業致します」「朝は味噌汁、昼は沢庵、夕は汁に沢庵です」「国にいる母に会いたいと思いが募りますが、5ヵ年半の年期中は諦めています(と言って目に涙をたたえ(ためている)ておりました)」

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